J 「合楽理念に基づく生き方は神の機感にかなう。」
昭和五十七年三月三日 朝の御理解
x御理解 第七十八節 「神の機感にかのうた氏子が少ない。身代と人間と達者とがそろうて三代続いたら家柄一筋となって、これが神の機感にかのうたのじゃ。神の機感にかなわぬと、身代もあり力もあるが、まめにない。まめで賢うても身代をみたすことがあり、また大切な者が死んで、身代を残して子孫をきらしてしまう 神のおかげを知らぬから、互い違いになってくる。信心して神の大恩を知れば、無事達者で子孫も続き身代もでき、一年まさり代まさりのおかげを受けることができるぞ。」
神の機感にかのうた氏子が少ない、と仰せられてあります。神の機感にかなうという事は、人間と身代と健康がたろうてしかも、三代続いたらというふうにここでは、表現しておられます。
人間が身代が健康と、そういうまあ、三拍子揃うたおかげを頂いて、しかもそれが子にも孫にも伝わっていくという事。そこで私共が信心の焦点としなければならん事は、神の機感にかなう氏子にならせて頂きたいという願いが第一である事がわかります、ね。親の代より子の代、子の代より孫の代というように、繁盛と同時に機感にかのうた家柄人筋となっておかげを頂きたい。
それにはね、難しい事を私は体得しなければならん、難しい事であったら親は体得しとっても、子供がそれを受けきらん。だから、その気になれば誰でも自然に一つの家の、家柄人筋となって伝わっていくような信心が願われるわけであります。
そこで私は、思うのですけれどもね、もう、いよいよ合楽理念に基づく生き方というものが、家の一つのまあ、家訓というか家風というか、ね、そういうありかたが出来ていく限り、子にも孫にも伝わっていくという事になるのだ、と。 難しい事では、なかなか子にも孫にも伝わっていかない。神の機感にかなうという事は、まあ、どういう事でしょうかね。神様のお心にかなう、そして通うという事だと思うですね。神様のお心にかなう。又、神様に通う心。それが私、神の機感と、ね 神の機感にかのうた氏子というのは、そういう事だと、ね。それには先ず、だから神様の機感というか、そのお心がわからなければならん、という事になります、ね。 合楽理念はそこのところをです、神様のいわゆる天地日月の心という事になってくるのじゃないでしょうかね。いわゆる天地一如の世界をめざすという事。それはもう自然のうちに、いつの間にか昨日の御理解を頂きますと、ね、人間が生まれた時に頂いてくる、きた心が真心だ、といわれてる、ね。昨日の御理解。
その、だから真心をいよいよ育てていくという事。なら、その真心を育てるという事は、なら、様々な手立てがあるかも知れません。私はわかりませんけれども、ま、合楽で言われる天地日月の心になる事肝要と言われる。そこんところに焦点を置いてね、私は生活の一つの土台とも又、基準ともしていかなきゃならない、ね。
そういう生き方が身につき家に入り備わってくるという、いうならば、商売は合楽理念をもってする他ないという、まあ、その店の風というものが出来て、合楽理念に基づくお商売。それが、なら、子にも孫にも伝わってくるという事になる、ね。
あちらのお店は、お客さんを大切にされる、ね、いわゆる仕入れ先を大事にされるま、これは、又の御教えなんですけれども、ね、商売をするなら売り場買い場といてと、その売り場買い場を大切にせよとおっしゃる。
人が十銭で売るものは八銭で売る。そういう生き方をね。その店そのものの、ま、店の風になってしまわなければならない。それを、なら、子供が孫が頂いていく。これはうちの店の流儀なんだ、これはうちの店の定めなのだ、というふうに、ね。そこんところを私は、子供が孫が頂いていく限りです、ね、三代続くだろうと思います。 はじめて神の機感にかのうた氏子、そこから、も、家柄一筋となってのおかげ、という事になる、ね。だから、どうでも先ず、神の機感にかのうた信心、今日も神様の機感にかのうた一日でありますようにからはじまらなきゃならんわけですね。
それには、神の機感を知らなきゃいかん。神の心がわからなきゃいけん、ね。そこに私共がはじめて、神の大恩を知らぬから互い違いになるといったような、ね。
神のおかげを知らぬから互い違いになってくる、と、ね。神の大恩を知れば無事健康でとある。神の大恩を知るという事。いわゆるそれは、なら、天地の心をが、わからなければ、神様の大恩はわからない。そういうところをわからねばならん、というのじゃなくて、合楽理念に基づく生き方をさせて頂いておると、ここのところが神様の願いとぴったりしてくる。そこにまあ、先だって筑後地区の共励会が甘木であった その甘木の教会の御信者さん方五人で発表されて、ま、よいお話だったそうですけども、善導寺の原さんでしたでしょうか、お話を頂いておってリズムを感じない、リズムがない。合楽の方達のお話を頂いておると、も、リズムに乗っての信心生活であり、又はおかげであるという意味の事を、ま、感じたというお届けがあったんですけれどもね。合楽理念に基づくと、天地のリズムが感じられるというのは、ね、もう、すでに神様の心を心としておるから、神様が寄りそうて、と、いうか、も、ま、一緒に私共とお働きを頂いておるという事になるのです。
いよいよ合楽理念に基づく生き方。これこそ、神の機感にかなう生き方だ、と。 も、それこそ、まあ、いうならば、も逆たんぼくって頼むとか願うとかと拝むとかと、言いますけれどもね。いやあ、一生懸命頼むとか願う、その事が信心ではなくてね、もう、合楽の皆さんの場合は、合楽理念に基づく生き方が合楽の信心だという事になります、ね。いうならば、お心に反した生き方、思い方、これではおかげになるはずありません。それを知っておって、わかっておって、そこんところが行じきれないといったような事では、だから、いつまでたっても人間と身代と健康というおかげになってこない。
私、今度の合楽だよりを見せて頂いとりましたら、ここの大きな写真が新春合楽の宴のクジを頂いた時の、あの時の写真が出てます。
皆さん、みんな読まれたでしょ。これね、して、あの、その事が次のこれに書いてあります。的確な信心の指針に終始どよめくと書いてある、ね。
的確な信心の指針。合楽の場合はそれが、ね、もう、それこそ百形、無形の中にという言葉があるけど、まさに、有形、無形の中に神様がその指針を一人一人に与えておられるという事です、ね。ですから、その、まあ、生き方をです、ね、その指針に基づいてお互いが信心生活をさして頂くという事が、とりもなおさず、神の機感にかのうた、今年はこれで行こうという指針にそうての生き方をまげず、折らず、それをいわゆる断行していく生き方を身につけていく稽古をさしてもらう。
神の機感にかなうという事はそういう事だと思う、ね。合楽の場合はその神の機感というか、神様の心というものをその、わかりやすく神様が吐露しておられるですね いつも神様の心を、しかも一人一人の上にそれを指針を示しておられる。ですから合楽で、信心の徳を受けなかったら、ちょっとおかしいぐらい。
いかにその人が怠慢であるかと言われても仕方がないね。教えに対する怠慢です。 そりゃ、毎日日参しよるという事だけが、神の機感にかのう事じゃないのです。
私、今日、神の機感にかのうた氏子が少ないと、まあ、神様のお嘆きです。
合楽に御縁を頂いておる、御信奉者の皆さんは、ね、神の機感にそうた生き方をさせて頂いて、神様にも喜んで頂き、それが子にも孫にも伝わっていくようなおかげ。 この写真に親、子、孫がこう前の方に写ってますね。昨日若先生が、ほう、こりゃ親、子、孫が前の方でこう合掌、柏手喝采しとるのか、合掌してるのかそこんところがこう、ね、親、子、孫が三代がです、同じいうなら、生き方にならせて頂く精進とね。為にはやはり、子供が親の信心を受け継いでくれなければ、だから出来ません。 又、孫も一緒についてこなけれはいけません。そういう願いをさせて頂いて、いよいよ合楽理念に基づく生き方を、いよいよ本当なものにしていきたい。
どうぞ。